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14号紹介

【経営学者 野田 一夫】
日本で一番元気があるのは起業家だ

―昨年で90歳になられたそうですが、まったく見えませんね。まだ現役でいらっしゃいますね。

野田 ひとよりは元気かな(笑)。ふり返ってみると長い間、経営学にたずさわってきたと思うね。子供の頃は、こんな人生を歩くとは思っていなかったが。

―幼い頃はどんな人間になろうと。

野田 小さい頃の夢は全く違ったんだよ。少年時代の夢は、飛行機を設計することだったんだ。航空機の技師をしていた父の姿を見ながら育ったので、同じ道に憧れを感じるようになったわけ。零戦の堀越二郎なんかに憧れていたね。父は、ライト兄弟の時代、鳥でもない人間が空を飛んだことに驚き、東京大学に進学して、航空学の勉強を始めた。ところが、当時は学内に専門家が少なくてね。十分な知識が得られず、ドイツに留学し、世界の最先端の技術を学んだ。父は帰国後に、航空機部門の責任者として、三菱重工業に招かれたんだ。



ピーター・ドラッカー『現代の経営』を紹介した

―では、野田さんも父親と同じ道を夢見ていたわけですね。

野田 父の背中を見ながら旧制高校まで理系の道を進んでいた。だが、東京大学に進学する直前に第二次世界大戦が終わり、日本は敗戦国となってしまった。新聞の一面に掲載されたダグラス・マッカーサーの言葉を、今でも鮮明に覚えている。『日本における航空機の製造ならびに、保有を一切禁止する」。その直後に、文部省は東京大学の航空学科を、廃止してしまった。少年時代からの夢を捨てざるをえなくなってしまったんだ。戦後は大学に通っていた理系の学生は、文系に進路を変えざるをえない状況だった。私は割り切れない思いはあったが、18歳で、産業社会学に転向したんだ。

―大学で産業社会学に転向して、いかがでしたか。

野田 当時を振り返って思うよ。社会科学と言うが、それは何かと。今でも疑問に思っているね。科学という名前がついているのは何なのか。物理や化学、数学はどこの国で習っても同じ解答だろう。でも、社会科学、経済学だと、人によって言うことが違う。どうしても科学的にはみえなかったな。

―学問に疑問を持っていたのに、学者になろうと。

野田 教授から大学に残るように勧められたんだよ。私は、父が失業していたこともあって、大学卒業後は、会社勤めをしようとしてた。大学教授や学者になることなんて、少しも考えたことはなかったからね。だが、「東大(東京大学)の大学院特別研究生になれば、収入が得られるよ」ということだったので、それならと、大学勤めを始めたんだ。

―企業経営論を専攻されていますね。

野田 そう。だが、東大の特別研究生としての生活はあまり好きにはなれなかったな。東大は自宅から遠かったし、キレイな学校じゃなかった。私が通っていた頃の東大経済学部といえば、マルクス経済学ばかりを教えていてね。近代経済学の知識のある人はいなかったし、経営学にいたっては話題になることすらなかったね。研究室は、物理的にも心理的にも、社会的にも、暗くて魅力がないと思った。東大もと暗しだ(笑)。学者には向いていないと思い、何度となくやめたくなったよ。

―その後、1955年から立教大学で教鞭をとっていますね。

野田 人から紹介されて赴任したんだ。立教大学のキャンパスは真っ青な芝生で覆われ、女子学生がたくさんいることに驚かされたな。学内で知り合った女性と30歳の時に結婚したんだよ。

―1960年、当時としては珍しく、海外のマサチューセッツ工科大学に招かれましたね。どういう経緯で。

野田 立教大学の勤務を続けていた頃に突然、手紙が迷い込んできたんだ。マサチューセッツ工科大学から、企業経営の国際比較プロジェクトの一員に招きたいということだった。世界各国から経営学の専門家を集めているようだったんだけど、どうして私がと首をひねったね。そんなときにふと思い当たったのが、ピーター・ドラッカー。彼の著書『The Practice of Management』を私が翻訳していてね、『現代の経営』というタイトルで、自由国民社から出版していた。当時は爆発的に売れていたんだよ。

―ピーター・ドラッカーといえば、現代経営学の父ですよね。彼を日本に紹介した功績は大きいですね。

野田 ピーター・ドラッカーは、その後、毎年のように来日するようになり、とても親しくなった。彼のセミナーにおける、コーディネーターも務めたんだ。きっと、ピーター・ドラッカーがマサチューセッツ工科大学に私のことを紹介してくれたんだろうと思うんだよ。彼は、はっきり言わなかったけどね。

―アメリカでも指折りの名門校に招かれた当時のお気持ちはどうでした。

野田 もちろん、喜んでマサチューセッツ工科大学のあるボストンに向かったな。当時は、海外旅行も珍しい時代だった。羽田から飛行機に乗ったけど、プロペラ機だったので、ボストンまで2晩3日の長旅。ウェーク島で給油、ハワイでトランジット・ステイ。今では考えられないね。

―学問は日本とまったく違いましたか。

野田 アメリカでは経営学がとても重視されていたね。マサチューセッツ工科大学には2年間いたかな。日本では学べない目新しいことに触れることができる貴重な経験だったね。実はボストンから帰国する飛行機の中で、決めていたことがあるんだ。「都心に事務所をもってやろう」と。場所は、赤坂にしようと決めていた。その時、私は30代で、以後60年間、赤坂に事務所を持ち続けているんだよ。

―なぜ、アメリカで都心に事務所を持とうという決意を。

野田 まさしく、向こうの経営学者は、都会に事務所を持ち、学生や実際の経営者と交際しながら、開かれた学びを行っていたんだ。それで、私は決めた。経営学をやるなら、経営者と会わなければならない。それに、研究室に閉じこもっていると社会の動きから取り残されてしまうよ。だとしたら、便利なところに事務所を持たなければ。大学というのは、ほとんどがビジネス街から、離れたところにあるので、経営者が訪れるには不便だよね。

―赤坂であれば、経営者からも便利な立地ですね。

野田 その通り。ただ、成功した企業の経営者に会うのは、難しかった。日本は、無名の人が著名な人に会うのがとてもむつかしい国だ。秘書課の壁が立ちはだかるんだよな。秘書課は、経営者への面会を断るのが仕事の一部だからな。



産業界の人に会うと元気になる

―それを突破するのが雑誌のインタビューだったと。

野田 雑誌の取材だといえば、断られない。当時、『エコノミスト』や『東洋経済』という雑誌において、経営というものが、彼らの領域に入りはじめた。だが、経営について書ける人間は少ない。もともと二誌は、経営の雑誌ではなかったんだ。喜んで私にページをくれた。しかも、私はただの取材ではなく、訪問先の会社が成長した要因について仮説を立て、それをもとに経営者と、経営の話ができるようにしていたんだ。仮説を話せば、経営者は興味を持ってくれるし、一目おいてくれる。場合によっては、一般には知られていない裏話を話してくれることもあったよ。

―1963年から「エコノミスト」で「企業経営の成長の決定的瞬間」というコラムを連載されていますね。

野田 対談した人は錚々たる経営者だった。出光佐三、本田宗一郎、松下幸之助など、昭和を作った伝説の経営者もいる。今のようにワープロなんてない時代に、毎週、400字づめ原稿用紙25枚の記事を書いていた。今は、この内容をいくつかの出版社から本にしたいという依頼を受けてるんだけど、時間がなくてまだ実現していない。

―今も、毎日のように経営者と会う日々ですよね。

野田 日本ではまだまだ、人を雇ったこともなければ、モノを作ったことも、売ったこともない学者が、経営について語っていることが多い。残念なことだよね。現場を見なければ、経営なんて議論できないよね。それに産業界の人に会うと元気になれるよ。ビジネスマンは元気があるだろう。日本で一番元気なのは当時も今も経営者だよ。



夢ではなく 志を持て

―ベンチャー三銃士と呼ばれた孫正義、南部靖之、澤田秀雄なども、赤坂の事務所に出入りしていましたね。

野田 産業界と密接な関係を築くと、事務所にも起業をめざす若い人が集まってくるようになったんだ。ベンチャー三銃士(孫正義・南部靖之・澤田秀雄)は、20代、30代の頃にこの事務所を足繁く訪ねてきてくれた。

―なぜ、経営者に会うのがお好きなのですか。

野田 昔からそういうところに行くのが好きだったね。終戦直後に20代だった私は、研究生として、東京大学に通っていたが、大学から上野によく行ってた。戦後の混乱の中、上野には大きな闇市が広がっていて、活気があったんだ。誰もが元気を失ったときに、アクティブに活動していたのは、露店を出して、人を呼び込む商売人だったね。

―これからの、若手経営者にかける言葉はありますか。

野田 夢でなく、志(こころざし)をもてということ。夢は少年、少女時代のあどけない憧れで、時とともに忘れてしまうもの。志は固い決意。いつまでも忘れずにもち続けるもの。志を遂げたときに満足感が生まれるものだ。私は戦争のため少年時代の希望とは全く異なる道を歩むことになったけど、自分が納得できる人生を志し、その志をなし遂げたと思っている。若い人たちが志、固い決意をもって人生にチャレンジすることを期待しているよ。

 

【 野田一夫 著書 】

・ 現代の経営(自由国民社、ピーター・ドラッカー著の翻訳−1958年)
・ 日本の重役(ダイヤモンド社−1960年)
・ 戦後日本の経済成長(岩波書店、共著、日経経済図書文化賞受賞−1963年)
・ 財閥(中央公論社−1967年)
・ 私の大学改革(産能大出版部-1999年)



【 略歴 】

1927年(昭和2年)6月22日生
1952年 東京大学社会学科卒業<産業社会学専攻>
    東京大学大学院特別研究生<企業経営論専攻>(〜1955年)
1955年 立教大学赴任、助教授を経て1965年教授(〜1989年)
1960年 マサチューセッツ工科大学ポストドクトラル・フェロー
1970年 財団法人 日本総合研究所設立 初代所長(〜1980年)
1975年 ハーバード大学東アジア研究所フェロー
1981年 財団法人 日本総合研究所理事長(〜2001年)
1985年 社団法人ニュービジネス協議会設立。初代理事長(〜1987年)
1989年 多摩大学設立 初代学長
1993年 社団法人 日本マネジメントスクール会長(〜現在)
      (2012年4月〜一般社団法人へ移行)
1995年 多摩大学退任(4月〜現在 同大学名誉学長)
1997年 県立宮城大学設立 初代学長(〜2001年3月)
2001年 財団法人 日本総合研究所会長(2006年〜2010年理事長)
    〜現在名誉会長(2012年11月〜一般財団法人へ移行)
2006年 財団法人 社会開発研究センター会長
      (2002年〜2006年理事長)現在名誉会長
      (2013年4月〜一般財団法人へ移行)
2008年 多摩大学学長代行(〜2009年3月)
2012年 事業構想大学院大学設立 初代学長(〜2014年3月)現在名誉学長

 

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